ムンバイ・ノート 第1話

吉時の一時間

この物語はフィクションです。人物・会話・出来事は創作で、土台にした事実は、末尾に出典つきで書きました。

ムンバイに着いて三日目の朝、取引先のシャーさんから電話があった。

「今日は、商談はやめにしましょう。ディーワーリーです。午後、うちの事務所に来なさい」

私は日本の中堅メーカーで、繊維の調達を担当している。シャーさんは、この街で三十年、織物の輸入を営んでいる。六十歳。話しながら、万年筆の先を布で拭く癖がある。断れる雰囲気の声ではなかった。

ホテルの窓の外を見ると、街は朝から、どこか浮き足立っていた。軒先には橙色の花輪。道端には、粉で描かれた、色とりどりの円い模様。ディーワーリーは、光の祭りだと聞いていた。ヒンドゥー教徒にとっては、日本の正月に近い日だと、シャーさんは前に話していた。

事務所は、フォートと呼ばれる古い商業地区の、石造りのビルの三階にあった。階段の壁は、長年の手垢で黒光りしている。

部屋には、机がすべて壁に寄せられ、床に白い布が敷かれていた。小さな祭壇に、女神ラクシュミーの絵と、灯りのともった小さな素焼きの皿。その前に、赤い布で装丁された、新しい帳簿が置かれていた。

家族が集まり、従業員たちも、いつもより襟を正して座っていた。私は、一番後ろに座らされた。

「商人にとっては、今日が、新しい年度の初日です」とシャーさんが小声で言った。「古い帳簿は昨日で閉じる。新しい帳簿を、今日、女神の前で開く。それで一年が始まる」

祈りは、思ったより静かだった。花を捧げ、帳簿の最初のページに、赤い粉で印を置く。シャーさんが、万年筆で、日付と一行を書き入れた。一行の中身は、見えなかった。

途中で、シャーさんが携帯電話を取り出して、画面を確認した。「今年の吉時は、もう発表されています」と私に見せた。

取引所が、今年の時刻を告げているのだった。ムンバイの証券取引所は、ディーワーリーの日に、吉時に合わせて、一時間だけ特別な取引を行う。ムフラト取引と呼ばれる。通常の取引とは別の、この日だけの一時間だ。

祈りが終わるころ、部屋の入口が騒がしくなった。息子のカランだった。

二十九歳。銀行で企業の財務を分析している。仕立てのいい紺のスーツで、少し息を切らしていた。父の前に膝をついて挨拶をして、それから私の隣に、あぐらをかいて座った。

「日本の方ですね。うちの父が、失礼していませんか」

「いえ、光栄です。祭りに呼んでいただいて」

カランは、私にだけ聞こえる声で、笑った。

「実は僕、占星術は信じていないんです」

「そうなんですか」

「友人もほとんど、そうです。ただ、今日は来る。父が喜ぶから、というのもあるけれど」

彼は、父の背中を見た。

「この一時間は、面白いんです。この街のブローカーが、みんな、同じ時刻に、同じことを始める。星のことは、僕には分からない。でも、全員が同じ合図で、新しい年を始めるのは、悪くないと思う」

「信じていなくても、来るんですね」

「祖父の古い帳簿が、まだ金庫にあるんです。今日は、休みを取ってきました。理由は、うまく説明できないけれど」

吉時が来ると、事務所の奥の小部屋で、家族と従業員が画面の前に集まった。取引所の建物に、私は入れない。けれど今は、取引の画面が、どこにでもあった。

普段の取引は見たことがないが、画面の数字は休みなく点滅するものだと聞いていた。この一時間は、様子が違っていた。画面の数字は、ゆっくり動いているように見えた。誰も、声を荒げない。

シャーさんは、家の印として、一銘柄だけを、ほんの少し買った。「これは、儲けるためではないんです」と私に言った。「新しい年を始める、印です」

私は、日本の株には手を出したことがない。だから、画面の数字が良いのか悪いのか、分からなかった。取引がどうなったのかも、私は覚えていない。覚えているのは、一時間が、思ったより長く、思ったより短かったことだった。

取引が終わると、部屋の空気がほどけた。誰かが甘い菓子を配り始めた。

シャーさんが、私の隣に来た。

「あなたは、占星術を信じますか」

正面から聞かれて、私は少し困った。

「信じている、とは、言えないと思います。ただ、車を買うとき、納車の日は、大安にしました」

「ダイアン」

「日本の暦で、縁起のいい日、という意味です。仏滅、という日もあります。結婚式や納車は、仏滅を避ける人が多い」

シャーさんは、声を出して笑った。

「同じだ。あなたも、私たちも」

彼は、新しい帳簿を、ゆっくり閉じた。

「私は、星が私の商売を決めているとは、思っていません。決めているのは、私の仕入れと、私の客です。ただ、年の最初の日に、何をどう始めるかを、自分で決められる。今日は、その日なんです」

「最初の一行、何を書かれたんですか」

「それは、秘密です」と彼は言い、少し考えてから、付け加えた。「去年より、正直に。それだけです」

帰国の飛行機の中で、私は手帳の新しい一頁を開いた。年の初めでも何でもない、十一月の頭だった。

何を書くか、しばらく迷った。それから、最初の一行に、こう書いた。

「先送りにしていた電話を、まず一本」

大安でも、吉時でもない日だった。窓の外は、雲の上の、白い空だった。

この物語の土台になった事実

事実ムフラト取引

インドの2大取引所(ボンベイ証券取引所とインド国立証券取引所)は、毎年ディーワーリーの日に、吉時に合わせて約1時間だけ、特別な取引を行います。ボンベイ証券取引所は1957年、インド国立証券取引所は1992年から続いているとされます(複数の解説記事による記述で、原典は確認していません)。開始の時刻は、その年ごとに取引所が発表します。

事実ディーワーリーと、新しい年度

ディーワーリーは光の祭りで、商人の家にとっては新しい年度の始まりです。帳簿を拝む儀式(チョプダ・プージャン)を行い、その後、新しい取引を始める習慣があったと説明されます。この習慣が、取引所の行事になったとされます。

事実信じる人44%、日取りに使う人83%

Pew Research Center の調査(2019年末〜2020年初め、成人約3万人)で、占星術を信じる人は44%、大事な日取りを吉日・吉時で決める人は83%でした。カランの言葉は、この2つが別の量であることを、一人の人物の口を借りて描いたものです。数字の詳細は、44%と83%の記事に書きました。

創作人物、場所、会話、出来事のすべて

語り手、シャーさん、カラン、事務所、祈りの場面の細部は、すべて創作です。実在の企業や取引所関係者を写したものではありません。特に、祈りの作法や事務所の様子は、この物語のために作った描写で、実際の慣習と細部が異なる場合があります。

これは、投資の話ではありません

この物語は、インドの人が占星術をどう使っているか、という社会の記述です。占星術で取引の日や時刻を選ぶことを、投資の判断として勧めるものではありません。作中の相場がどうなったかを書かなかったのも、そのためです。