月の宿 第1話

三十六点

この物語はフィクションです。人物・会話・出来事は創作で、土台にした事実は、末尾に出典つきで書きました。

十月の土曜の朝、母のスニータは、台所の棚の奥から茶色い封筒を取り出した。角が擦り切れている。ミーラが生まれた翌週に、父が産院で書き取ってもらった、生年月日と、おおよその時刻の控えだった。

「ジョーシー先生のところへ行くわよ。九時に約束してあるから」

ミーラはチャイのカップを持ったまま、うなずいた。二十八歳。プネーのIT企業で、ソフトウェアのテスト設計をしている。土曜に出社しなくていいことも、母がこの日を選んだ理由のひとつだったはずだ。

先週、母の従姉の紹介で、ローハンという人の家から返事が来た。建築事務所で図面を引いている三十一歳。写真は一枚だけで、ソファの端で少し困ったように笑っていた。

会う前に、することがある。二人の出生図を並べて、先生に見てもらうこと。この家では、結婚の話が動く前の、歯を磨くのと同じくらい当たり前の手順だった。

ミーラは、占いを信じているかと聞かれたら、半分くらい、と答えると思う。それでも、しない、という選択肢がこの家にないことも、分かっていた。

ジョーシー先生の部屋は、古い団地の三階にあった。壁には神々の絵が並び、机には手書きの表と、開いたままのノートパソコンが同居している。六十代の先生は、眼鏡を額に上げて、二枚の出生図を見比べた。

「月の宿は、お二人とも出ますね。ミーラさんの生まれた時刻は」

「夜明け前、としか」と母が言った。

「今日の照合には、たぶん足ります。時刻が分からないと出せないものもありますが、今日見るぶんは、大半が月の宿から計算できる。宿の境目に近い日だと、時刻で変わりますが、今回は大丈夫そうです」

先生は、八つの基準を、順に声に出した。ヴァルナ、ヴァシュヤ、ターラー、ヨーニ、グラハ・マイトリー、ガナ、バクータ、ナーディー。満点は、順に一点から八点。全部合わせて、三十六点になる。

ミーラは、基準が読み上げられるたびに、隣に座る母の肩が少しずつ上がっていくのを見ていた。

「合計は、十七点です」

部屋が静かになった。壁の時計の音だけが聞こえた。

「十八点を目安にする家が多い。十七は、その一つ下になります。内訳を申し上げます。ガナが、六点満点のうちゼロ。ナーディーが、八点満点のうちゼロ。残りの六つで、十七点を取っている」

母が息をのんだ。「ナーディーが、ゼロ」

「昔から、気にする家の多い項目です」

「では、この縁談は、やめたほうが」

ミーラは、先生がすぐに「そうですね」と言うと思った。言わなかった。先生は眼鏡を下ろして、母をまっすぐ見た。

「私が申し上げられるのは、計算の結果と、この目安を使う家が多い、ということまでです。この点数で、お二人の先を言い当てることは、私にはできません。決めるのは、ご家族と、お二人です」

母は言い返そうとして、やめた。ミーラは、先生の机の隅に、鉛筆で書かれた小さな数字がいくつも並んでいるのに気づいた。消して、書き直した跡がある。この人も毎回、自分の手で計算しているのだと思った。

帰りのリキシャの中で、母はずっと窓の外を見ていた。

「ネハのこと、覚えてる」

ネハは、ミーラの高校時代の友人だ。二年前、相手の家から、彼女の出生図に「障り」があると言われて、縁談が消えた。ネハは今も、その話を笑って話す。ミーラは、その笑い方を知っていた。

「点が足りなかったら、会わないうちに断られるの。会って話す前に」

母は答えなかった。リキシャが信号で止まり、売り子が窓の外に花輪を差し出して、去っていった。しばらくして、母が小さな声で言った。

「あんたが、傷つくのが、いやなのよ」

ミーラは、何も言えなくなった。信号が変わった。

「アーイ。会ってみてもいい? 点の話は、あとにして」

「先生は、なんて言ってた?」

「決めるのは、私たちだって」

母は、長いこと自分の膝を見ていた。それから、うなずいた。

ローハンとは、日曜の午後、大通りの裏のコーヒー店で会った。母は二つ向こうの席で、雑誌を読むふりをしていた。

ローハンは、写真より少し痩せていた。最初の五分で、砂糖を三回混ぜた。

「点のことは、母から聞いています」

「十七点」とミーラは言った。

「ガナが、ゼロだそうです」

「気質の相性、という意味だそうです」ミーラは、昨夜調べたことをそのまま言った。「気質って、何のことなんだろうって、ずっと考えていて」

ローハンは、初めて顔を上げた。

「僕は……夜のほうが、図面が進むんです。朝は、あんまり、その、話せなくて」

「私は朝です。朝がいちばん、頭が動く」

二人は、少し笑った。ミーラは、縁談の会話のいつもの順番、趣味は、仕事は、ご家族は、から、一歩外に出た気がした。点数とは関係のない話だった。それでも、点数の話をしなければ、出てこなかった話だった。

「朝、話せないとき、どうしてほしい?」

「放っておいてほしい、かな。何も言わずに」

「私は、朝がいちばん話したいの」

「じゃあ……そこは、決めておかないと」

一週間後、ミーラは母に言った。

「あと三か月、会ってみる。それで決める」

「十七点のままで」

「点は十七のまま。でも、その間に、朝の話をしておきたいの」

母は、すぐにはうなずかなかった。台所のコンロの前で、鍋を見たまま、しばらく黙っていた。

「ジョーシー先生に、お礼を言いに行かなくちゃね」

「何のお礼」

「決めなかったこと」

ミーラは笑わなかった。その夜、机の上のノートを開いて、一行目に「朝と夜のこと」と書いた。二行目は、まだ思いつかなかった。

この物語の土台になった事実

事実結婚前に、出生図を照らし合わせる習慣がある

インドの見合い結婚では、二人の出生図を照合する習慣があり、代表的な方法がアシュタクータ(8つの基準)です。8つの基準の満点は1点から8点まで、合計は36点満点です。

実務18点以上を目安にする

実務では、18点以上を目安にする、という話が広く流通しています。基準の多くは、生まれたときの月の宿から計算できます。ただし、この配点や目安は商用の解説サイトなどによる紹介で、古典のどの章に書かれているかは、私は確認できていません。ナーディーやガナの説明も、一般的な解説によるものです。家や地域によって、点数の扱いは違います。

事実判定が、縁談で不利に働くことがある

出生図の特定の配置を「結婚に不利」とする慣習(マンガル・ドーシャ)によって、縁談で不利になる人がいることは、インド国内でも問題として批判されています。作中のネハの話は、この事情を踏まえた創作です。

創作人物、場所、会話、出来事のすべて

ミーラ、スニータ、ローハン、ジョーシー先生、ネハは架空の人物です。プネーの描写と、鑑定の場面は、この物語のために作りました。実在の占星術師や家庭の様子を写したものではありません。

作中の「ガナ」と朝型・夜型について

ガナは、一般に気質の相性を見る基準とされ、朝型・夜型を指すものではありません。作中で二人が見つけた生活リズムの違いは、点数が当たったからではなく、点数をきっかけに話してみて分かったことです。占星術の点数が二人の相性を言い当てた、という物語ではありません。